最近目にしたニュースです...
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失明覚悟の研究
日本で初めてコンタクトレンズを作った人は、メニコンの創業者で現会長の田中恭一氏(76)、ということをご存じですか?有名な話らしいのですが、恥ずかしながら私は知りませんでした。
今月、東京都内でメニコンの新製品発表の会見会場で、コンタクトレンズの歴史を聞き、驚きました。メニコン広報宣伝部によると、「田中会長が眼鏡店に勤めていた1950年当時、来店した米将校婦人からコンタクトレンズのことを知り、自分で作るぞ! となったそうです。ただ道具がない。そこで、実験台を自分の目にしました」というからビックリ。失明を覚悟で研究する姿勢に、頭が下がる思いでした。これまで、「モノづくり・ニッポン」という切り口で、世界市場を切り開いた日本の技術などを取材し、さまざまな苦労話を聞いてきましたが、失明覚悟で、というのは初めてで、衝撃を受けました...
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/health/123161/
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そこで調べてみました。
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歴史:
1508年 レオナルド・ダ・ヴィンチ、コンタクトレンズのアイデアを考案。
1887年 オーゲン・フィックにより初のガラス製コンタクトレンズが作られる。
1932年 イギリスICI社により透明度の高いPMMA(アクリル樹脂)が開発され、
同年、アメリカのロームアンドハース社によって市場に導入される。
1936年 アメリカのObrigとMuller がPMMA をレンズに使用できることを実証。
1948年 アメリカのTouhyがPMMAを用いてハードコンタクトレンズの原型を作り出す。
1949年 名古屋大学の水谷豊博士、日本で初めて臨床試験に着手。
1951年 水谷、円錐角膜患者に対し、臨床的に成功を収める。
1951年 田中恭一、日本初の角膜コンタクトレンズの実用化に成功。
1952年 田中恭一、日本コンタクトレンズ研究所(現メニコン)を設立。
1958年 水谷豊、合名会社日本コンタクトレンズ研究所(ニチコンの前身)を創業。
1960年代:チェコの科学者 オットー・ウィフテルレ(Otto Wichterle)によって、
後にソフトコンタクトレンズの素材となるアクリル系ハイドロゲル (HEMA)発明。
1970年ごろ RGP(酸素透過性レンズ)が登場。
1971年 アメリカのボシュロム社によってソフトコンタクトレンズが発売される。
1988年 アメリカのFDAが使い捨てコンタクトレンズを認可。
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株式会社メニコン会長 田中恭一氏:
田中さんは、愛知県木曽川町の出身。父は竹彫工芸家、遺伝なのか子どもの頃から手先が器用で、大抵のおもちゃや遊び道具は自分で作った。 14歳の時、父親が懇意にしていた玉水屋という名古屋の老舗の眼鏡店に勤める。フレームに合わせてレンズをカットする手作業も器用なのですぐに習熟。
ある日、常連客だった将校夫人が、ある日「私、実はコンタクトレンズを持っているのよ」という話を自慢げにした。ぜひ見せて欲しいと懇願したが、断られた。「ダメよ、これは私の宝物だから……」
「あのときの彼女の思わせぶりというかもったいつけた態度が私の闘志に火を付けたことだけは間違いない(笑)」。それからは、寝ても覚めても頭の中はコンタクトレンズのことばかり。自分の目を穴が開くほど観察、
兄にもモデルになってもらって、それぞれの部位のサイズやどのようなカーブがついているかを測ったりスケッチしたり。眼鏡フレームなどに使われる風防ガラス(アクリル)の余りを知り合いの工房で分けてもらって、ノコギリなど父の道具を借りて削る。鉄のヤスリを掛けたあとで、歯磨き粉をつけた布で研磨して仕上げ。 三日三晩ほとんど寝ないでつくった試作品は、ただ単に円形で球のカーブもついていない貝ボタンのように平べったい作り。いくら押し込んでも、なかなか目の中に入らなかった。何回となくやっているうちに、偶然に左目へ入った。粗末なコンタクトで、目も相当痛かったはずだが、不思議と痛みは感じなかった。「もし、あの時に痛いと思ったら、コンタクト作りはやめていたかもしれない。痛みを感じなかったことが、国産1号に結びついた」...
(しかしやはり、自分の目まで痛くなってくるような話ではある)
そこで、中古の旋盤加工機を探し出し、貯金全てをはたいて購入。小さなプラスティックの裏表両面を眼球のカーブに合わせて削って、試作品は全て自分の目に入れてテスト。入れてみて痛くないか、自転車に乗って全速力で走り風圧による影響はどのようなものか、川に飛び込んで水圧でずれたり外れたりしないか、水の中で目を開けられるかなど試したりしながら、改良を重ねた。
1951年、そんな試行錯誤を繰り返し、取り組み初めて3ヶ月後には「これならば」と思うものができる。...当時使われ始めた強角膜レンズの開発をリードしている日本のドクターの記事を新聞で読んだ。その先生を訪ねたが、「こんなものはコンタクトレンズではない」、「君は知らんようだが、コンタクトレンズというのは強角膜を覆うだけの大きさがないと使い物にならないんだよ」。
「でも私は、それがちゃんと目にフィットして実際に使えるということを、自分自身の目で検証していますから一歩も引くことはありませんでした。 実際に自分の目に付けて見せました。私が全く痛がらないこと、レンズが下にずり落ちていかないことにその先生は驚き、最終的には『ひとまず角膜のテスト用にでも試験的に使用してみよう』ということになりました。 答えはすぐに患者さんが出してくれました。使用した人は軒並み、『先生、こちらのテストレンズの方がよく見えます』、『こちらのレンズだと痛くありません』と強角膜レンズではなく私のレンズを支持した」。
それからは、その先生のところだけでも、いくら作ってもさばききれないくらいの注文が殺到。1952年、玉水屋を退職し、「日本コンタクトレンズ研究所」(現メニコン)を設立。21歳。
「逆説的ではありますが、そういう未知の世界だからこそ、好奇心と情熱以外に何も持たない私のような若者であっても、ゼロからそれを産み出すことができたのです。 だから、是非とも若い方々には、常に好奇心を持って世の中を見て、『人まねではなく自らがフロントランナーになれるような全く新しい分野』を探してみて欲しいと思います。それが社会の活性化にもつながると思います。 あとは、月並みなことですが、やはり『諦めない』ことですね。当社の研究員などでもそうなのですが、研究や実験がちょっと上手く行かないと、すぐに『失敗した』『駄目だ』と落ち込んでしまう。そんなとき私は『失敗なんかあり得ない』と言います。それは成功に至るプロセスの一つでしかないのです。それが本当に『失敗』となるのは、自分が諦めたときです。放り投げたことによって、その経験が水泡に帰し、決して実りを迎えないことが確実になったとき、それは初めて『失敗』になるのだと私は思っています」...
▽資料
Wikipedia:
http://www.innovative.jp/interview/2007/1010.php
http://www.nipponcl.co.jp/comp/co03.html
http://www.maing.co.jp/maimai/tech/tech_030520.html